2013年11月8日金曜日

ダメな息子

母さんから「今日は弁当の要らない日」と言われたのに、ボクは自分で弁当箱にご飯を詰め込んで幼稚園にいった。幼稚園にはあらかじめ注文されたパンがちゃんと届いていた。ランドセルが自分だけが茶色だった。当時、ランドセルは男の子は黒と決まっていたのに恥ずかしかった。あとからその事について聴いたら。ボク自身が茶色にすると言ってきかなかったそうだ。そんなきかん気の子どもだったのにボクはしかられた記憶がない。

一度だけ、夜に社宅を飛び出した。何かで叱られたのかもしれないけど覚えていない。飛び出すと言っても小さなこどものことだ、暗いし、心細いし、裏の土手をウロウロしているだけだった。その時、母さんはこっそりボクを探しに来ていた。

高校を卒業して東京で暮らしたいといったら、反対されなかった。一浪して、一年余分に大学に行き、卒業してしばらく無職でいたのに、そのことでなにか言われたこともない。

母さんは、他人のことを他愛もない話題であげつらうことは多かった。「あそこの店はどうだ」とかね。だけど、ボク自身のことをどうこう言うことはなかったし、それが当たり前のことなんだと思っていた。自分の息子には口うるさい今のボクとは違う人だった。

母さんの病気が助からないところまで来ているということをボクは気がつかなかった。母さん自身も知らなかったし、知らないままで亡くなった。入院し、意識の混濁が始まり、意識がなくなるまで、本当に短い時間に起こったことだ。

最後の十日ほどの時間を病院で寝泊まりしながら、不思議と辛いとか悲しいとも思わなかった。もちろん、病気に気がつかなかった不甲斐なさはいまも心にある。だけど、病院で母さんと過ごした時間は、不思議と楽しかったんだ。「母さん、小さな船がたくさん見えるよ」「母さん、窓に小鳥が来てる」「母さん、今日は雪だ」伝わるはずのない母さんにボクは伝えた。

ボクは、その時、母さんと旅行に来て駅のホームで迎えの列車を待っているような気分だった。母さんと二人きりでこんなにゆっくり旅をするのも初めてだったし、その頃のボクは忙しすぎる仕事にうんざりしていたからね。不謹慎だけど楽しかった。お迎えの列車はなかなか来なかった。医者は毎日のように、「今日が峠です」と言いながら、なかなかその時が来ないので、しまいにはなにも言わなくなった。母さんは、医者まで黙らせた。すごいね。

母さんが最後の息をひきとる時、ボクは食事をとるのに妹に少し時間を代わってもらった。病室を出て、ほんの10分ほどで妹から呼び出しがあった。病室に戻ったら妹は泣き叫んでいた。葬儀は決められた手順で進み、その時も悲しいとか辛いとは感じなかった。ただね、ボクは初めて母さんに叱られたような気がした。肝心な時にそばに居なかったんだからね。ダメな息子だね。

母さん、ボクは母さんにとっていい子でしたか。さみしいです。

0 件のコメント:

コメントを投稿