2013年11月8日金曜日

まこと

まことは、同じ歳の幼なじみだった。まことは、肌が白く、ブロンドの髪で、茶色の目をしていた。通っていた幼稚園の近く街の外れ、炭鉱から出たボタで埋め立てた窪地に自宅があった。幼稚園には歩いて通ったし、ボクの社宅から幼稚園には歩いて通える距離だったので、まことの家で一緒に遊ぶことが多かった。

母親は働いているのか姿をみかけることは少なかった。父親のことは、どんな人物か知らなかったし、聞いたこともなかった。まことの髪の色に関わりがある人なのだと思うのだけれど、ボクにとっては想像の外にあったし、まことと遊ぶことに必要なことでもなかった。

佐世保まで船で1時間、島の経済はその頃にはすでに斜陽になりつつある炭鉱で支えられていた。ボクの自宅は、同じ設計の長屋が並ぶ炭鉱の社宅だった。まことの家は、そういった企画とは違う民家だったので、炭鉱で糧を得ていたのではないのだろう。ボクは、そんなまことの家を少し羨ましく思っていたような気がする。

ボクたちが生まれる数年前には、朝鮮戦争もいったん休戦状態になっていたけれど、佐世保には、米軍が駐留し、佐世保の街でGIが闊歩することが当たり前の風景であった。彼らの存在がに何かの意味を見いだすには、ボクは、ただのおろかな田舎の子どもだった。

まこととは、そのころ流行っていたGI.ジョーで遊ぶことが多かった。その米兵を模したフィギュアとまことの父親のことを結びつけて考えたこともなかったし、現実にそうだったのかも確認したことはない。ボクにとって、まことの父親のことなど、日常を過ごすことになんの影響も与えることではなかった。まことにとってどうだったのか、今になって考えてみるみるけれど、考えることの意味や答えを捕まえることができるとも思えない。

GI.ジョーで遊びながらも、自動小銃から発射された弾丸が空気を切り裂く音や、手榴弾のウロコ模様が破片となって兵士の肉体を削ぐこと、首から下げた認識票の最後の使われ方も知らない。無邪気な子供の想像力ではつかまえることのできないことだ。

小学校に上がってまことは、一度、姓を変えた。担任からクラスに伝えられたのだと思う。姓が変わった訳は知らない、ボクにはすでに興味のないことだった。そのころにはボクも別の友達と遊ぶことも増えたし、一人で好きな絵を描くことも多くなった。まことと遊ぶ時間は減っていた。

まことが島を離れたときのことを覚えていない。炭鉱では、急に家族が別の生活を求めていなくなることは、ごく当たり前だった。ボク自身がその数年後には、見知らぬ土地で過ごすことになるのだから。

まことがそのあと、どんな人生を過ごしたのかも知らないし、生死も含めて確かめることもできない。苦労したのか、幸せなのか、想像してもなにも見えない。ボクは、いまでも想像力の足りない子どものままだ。

わかっているのは、まことの家で、まことと遊んでいた時間は、とても楽しかった。たとえそれが、兵士に見立てたフィギアで殺しあう遊びであったとしてもだ。遊びの中では、兵士は何度も生き返る。だけど、まことと過ごした時間は、楽しかった記憶として、ボクの心の底に、ぽっかり穴を開けたままだ。その穴は、この先も埋まることがない。

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